現在日本では、特に関東と東海地方を中心にペルー人の集住する地域において、セニョール・デ・ロス・ミラグロスと呼ばれる行事が開催されている。10月のいずれかの日曜日に行われており、カトリック教会の敷地内や周囲の路上でミサの後にキリストの磔刑の絵図を載せた神輿を担ぎ、行進曲や讃美歌とともに練り歩くというものである。特に規模の大きなものとしては、静岡県浜松市、掛川市、愛知県名古屋市、小牧市、群馬県伊勢崎市、神奈川県大和市、栃木県小山市などがある。そして日本においては、そこでは必ずと言っていいほど神への奉納物としてペルーの伝統舞踊マリネラが捧げられる。 

この行事はペルーにおいてはスペイン植民地期を含め400年近く続く伝統であり、カトリックが未だ多数を占めるペルーにおいては国民的伝統行事として認識されている。そのため、日本においては在日ペルー人コミュニティを象徴する最たる行事と言っていいだろう。 

セニョール・デ・ロス・ミラグロスは 1651 年にペルーのリマ市のパチャカミーヤ地区 において、現在のアフリカのアンゴラに当たる地域から連行された奴隷の人物が、当時スペインの植民地支配の中でカトリックに改宗したその他のアンゴラ系の人々で構成された信者の集まりが使用する建物の壁面に描いたキリストの磔刑の図、およびその絵が起こした奇蹟に因んだ信心と祭礼行事である。当初、磔刑のキリストの姿のみが描かれたものであったが、1671年に当時のペルーにおけるカトリック教会上層部から奇蹟を起こす存在として公認された際にパドゥレ・エテルノ(Padre Eterno=永遠の父、神), エスピリトゥ・サント(Espíritu Santo=聖霊)が加筆され、それ以前の 1655 年~1671 年の間にビルヘン 

(Virgen=聖母マリア), マリア・マグダレーナ(María Magdalena=マグダラのマリア)の姿が追加された。1655年11月13日、1687年10月20日、1746年10月28日にリマ市を大きな地震が襲った際には、この壁画が描かれた壁のみが瓦礫の中で残ったとされている。1655 年の地震のあと、セニョール・デ・ロス・ミラグロスの壁画を信奉していたアンゴラ系の人々は地震の被害のためパチャカミーヤ地区から離れ、壁画も放置されていた。15年後の1670年、当時頭部に腫瘍を患い苦しんでいたスペイン系のアントニオ・デ・レオン(Antonio deLeón)という人物がこの壁画を発見し、崇敬し始めた。すると、頭部にあった腫瘍は完治してしまったといわれている。この出来事がきっかけで再びこの壁画に対する信心が広まり、アンゴラ系の人々も再度集まってきた。 

しかし、このアンゴラ系の人々による集まりは楽器を持ち込み、宴を催すなど徐々にカトリックの信仰の場とは関係の無い娯楽の場となり、それを危惧したリマ市当局とカトリック教会関係者はその集会所の使用禁止令と壁画の消去を命じた。しかし、この絵を消そうとする作業員たちは気分が悪くなり、ある者は壁画のキリストの冠が光出すという現象を目の当たりにした結果、この壁画の持つ奇蹟の力をリマ市のカトリック教会上層部も認めることになった。そして 1671年9月14日にこの壁画の前で初めての正式なミサが執り行われた。

 

 

プロセシオン(Procesión)と呼ばれる行列が初めて行われたのは、1687 年 10 月 20 日の地震発生時であり、スペイン出身のセバスティアン・アントゥニャーノ(Sebastián de Antuñano)という人物が壁画のある小聖堂に避難していた信者の人々とともに壁画の複製を持ち出し、リマ市内を練り歩いたのが起源とされている。現在、オリジナルの壁画はリマ市のナサレナス教会 (Santuario y Monasterio de Las Nazarenas)に安置されている。 

セニョール・デ・ロス・ミラグロスの行列で使用される壁画を載せた輿状のものはアンダ(Anda)と呼ばれるものである。そして行列の進行方向、つまり正面側にはセニョール・デ・ロス・ミラグロスのイマヘン、裏面にはビルヘン・デ・ラ・ヌーベ(Virgen de la Nube)と呼ばれるエクアドルに出現した聖母の姿が描かれている。 

ビルヘン・デ・ラ・ヌーベの出現は、1696 年に当時のエクアドルのキトの司教であったサンチョ・デ・アンドラーデ・イ・フィゲロア(Sancho de Andrade y Figueroa,1632–1702)が病を得ていた際、群衆が彼の回復を祈るロザリオの祈りの行列を行っている最中に雲の中 

に聖母が現れたのを目撃したことに因む。 

ビルヘン・デ・ラ・ヌーベの姿がセニョール・

デ・ロス・ミラグロスと共に描かれる理由は、セニョール・デ・ロス・ミラグロスへの信心を持つ人々が集う信徒団であり、日本における群馬県伊勢崎市や神奈川県大和市のエルマンダの″元祖″にあたり、リマ市においての行事の中心的役割を担うエルマンダ・デル・セニョール・デ・ロス・ミラグロス・デ・ナサレナス(Hermandad del Señor de los Milagros de Nazarenas,以下ナサレナスのエルマンダ)の本部があるナサレナス教会に隣接するナサレナス修道院の創設者が、エクアドル出身の修道女アントニア・ルシア・デル・エスピリトゥ・サント(Antonia Lucía del Espíritu Santo,1646-1709)であったことに起因する。 

セニョール・デ・ロス・ミラグロスのエルマンダのメンバーは行事中、キリストが受難の際に紫色の衣を着せられたことに因んだ紫色のアビト(Hábito)と呼ばれる修道服を着用するが、この紫色の修道服の色は彼女によってナサレナス修道院が設立された頃からの伝統であるとされている。ペルー本国、特にリマ市においては 10 月の 1 か月間を紫の月を意味するオクトゥーブレ・メス・モラド(Octubre Mes Morado)と呼び、セニョール・デ・ロス・ミラグロスに信心を持つ人々はエルマンダに属していなくとも紫色の衣服を着用して過ごす 。行列そのものはかつての地震の際の奇蹟と関連して 10 月の第一土曜日、18 日と 19 日、28 日、11月 1 日に行われている。 

現在、ナサレナスのエルマンダは登録者数 5000 人であり、男性のみで構成される担ぎ手カルガドーレス(Cargadores)は各200人前後20 隊のクアドリーヤと呼ばれる小隊に組織されており、このほかに名誉会員(Hermanos Honorarios)や女性で構成される行列時に香炉を焚くサウマドーラス(Sahumadoras)と讃美歌を唄うカントーラス(Cantoras)に分かれ、リマ市の大司教から任命されたマヨルドモ(Mayordomo)と呼ばれる会長の下で運営され、毎年 10 月のリマ市の行事の際には行事の主催者となり、活動している。

 

以上 

菊池 一輝

 

2024.1.30. 下記参考文献を基に菊池が 2018 年に作成した修士論文中の記述を抜粋して作成: 

寺澤宏美 2013 在在日ペルー人とカトリック教会」『現代における人の国際移動アジアの中の日本』(吉原和男編) p423-436 慶応 

義塾大学出版会。 

沼尻正之・三木英 2012 在再現される故郷の祭り 滞日ペルー人の奇跡の主の祭りをめぐって」『日本に生きる移民たちの宗教生 

活』(三木英、櫻井義秀編) p115-138 ミネルヴァ書房。 

古屋哲 2014 在在日ペルー人の暮らし セニョール・デ・ロス・ミラグロスを中心に」立命館大学国際関係研究科博士課程前期・ 

学位論文。 

Enrique Martín Tokumori Neyra 2008『LA HISTORIA DE LA FE EN LAS CALLES DE LIMA』 Deposito legal en la Biblioteca

Nacional del Perú.

Ramón Mujica Pinilla 他 2016『El Señor de los Milagros: Historia, devoción e identidad』 Banco de Credito del Peru.

Rubé n Vargas Ugarte 1949『Historia del Santo Cristo de los Milagros』 Centro de Proyección Cristiana.

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