現在日本では、特に関東と東海地方を中心にペルー人の集住する地域において、“奇跡の主”を意味するセニョール・デ・ロス・ミラグロスと呼ばれる行事が開催されている。10月のいずれかの土・日曜日に行われており、カトリック教会の敷地内や周囲の路上でミサの前後にキリストの磔刑の絵図を載せた神輿を担ぎ、行進曲や讃美歌とともに練り歩くというものである。特に規模の大きなものとしては、静岡県浜松市、掛川市、愛知県名古屋市、小牧市、群馬県伊勢崎市、神奈川県大和市、栃木県小山市などがある。また関西地方では、日本最古の行事である神戸市での行事が現在でも続いている。
セニョール・デ・ロス・ミラグロスは北端を栃木県小山市、南端は沖縄県宜野湾市まで20か所以上の地域で開催されており、そして日本においては、そこでは必ずと言っていいほど神への奉納物としてペルーの伝統舞踊マリネラが捧げられる。
この行事はペルーにおいてはスペイン植民地期を含め400年近く続く伝統であり、カトリックが未だ多数を占めるペルーにおいては国民的伝統行事として認識されている。セニョール・デ・ロス・ミラグロスはリマ首都圏で非常にポピュラーな守護聖人であり、また2005年には国内外に住む全ペルー人の守護聖人と公的に位置付けられた。中央の文化が人々の移動と共に周縁部へ広がるというパターンは日本を含めた全世界で普遍的に起こり得る現象であり、現在までにペルー各地の元来のローカルな守護聖人への崇敬をも凌駕する勢いでその広まりを見せている“圧倒的人気の守護聖人”ともいえる存在だ。過去に筆者の訪れたトルヒーヨ、ビルー、サン・ビセンテ・デ・カニェテ、オトゥスコなどの地方都市でも必ず教会、あるいは市場や商店、そして個人宅の祭壇などにその聖画が置かれていた。
以上の経緯からペルー全土の各都市に加え、日本と同様にアメリカ、ドイツ、フランス、イタリアなどペルー人移民社会が存在する世界中の国々の都市でも開催されている。そのため我が国においても在日ペルー人コミュニティを象徴する最たる行事と言っていいだろう。
セニョール・デ・ロス・ミラグロスは 1651 年にペルーのリマ市のパチャカミージャ地区 において、現在のアフリカのアンゴラに当たる地域から連行された奴隷の人物が、当時スペインの植民地支配の中でカトリックに改宗したアンゴラ系の同胞で構成された信徒の集まりが使用する建物の壁面に描いたキリストの磔刑の図、およびその絵が起こした奇跡に因んだ信心と祭礼行事である。
当初、磔刑のキリストの姿のみが描かれたものであったが、1671年に当時のペルーにおけるカトリック教会上層部から奇跡を起こす存在として公認された際にパドゥレ・エテルノ(神), エスピリトゥ・サント(聖霊)が加筆され、それ以前の 1655 年~1671 年の間にビルヘン(聖母マリア), マリア・マグダレーナ(マグダラのマリア)の姿が追加された。
1655年11月13日、1687年10月20日、1746年10月28日にリマ市を大きな地震が襲った際には、この壁画が描かれた壁のみが瓦礫の中で残ったとされている。1655 年の地震のあと、セニョール・デ・ロス・ミラグロスの壁画を信奉していたアンゴラ系の人々は地震の被害のためパチャカミージャ地区を離れ、壁画も放置されていた。
15年後の1670年、当時頭部に腫瘍を患い苦しんでいたスペイン系のアントニオ・デ・レオンという人物がこの壁画を発見し、崇敬し始めた。すると、頭部にあった腫瘍は完治してしまったといわれている。この出来事がきっかけで再びこの壁画に対する信心が広まり、アンゴラ系の人々も再度集まってきた。
このアンゴラ系の人々による集まりは楽器を持ち込み、宴を催すなど徐々にカトリックの信仰の場とは関係の無い娯楽の場となり、それを危惧したリマ市当局とカトリック教会関係者はその集会所の使用禁止令と壁画の消去を命じた。しかし、この絵を消そうとする作業員たちは気分が悪くなり、ある者は壁画のキリストの冠が光出すという現象を目の当たりにした結果、この壁画の持つ奇跡の力をリマ市のカトリック教会上層部も認めることになった。そして1671年9月14日にこの壁画の前で初めての正式なミサが執り行われた。
プロセシオンと呼ばれる行列が初めて行われたのは、1687年10月20日の地震発生時であり、スペイン出身のセバスティアン・アントゥニャーノ(1652-1717)という人物が壁画のある小聖堂に避難していた信者の人々とともに壁画の複製を持ち出し、リマ市内を練り歩いたのが起源とされている。現在、オリジナルの壁画はリマ市のナサレナス教会に安置されている。
セニョール・デ・ロス・ミラグロスの行列で使用される壁画を載せた輿状のものはアンダと呼ばれるものである。そして行列の進行方向、つまり正面側にはセニョール・デ・ロス・ミラグロスの聖画、裏面には“雲の聖母”を意味するビルヘン・デ・ラ・ヌーベと呼ばれるエクアドルに出現した聖母の聖画が描かれている。
ビルヘン・デ・ラ・ヌーベの出現は、1696年に当時のエクアドルのキトの司教であったサンチョ・デ・アンドラーデ・イ・フィゲロア(1632-1702)が病を得ていた際、群衆が彼の回復を祈るロザリオの祈りの行列を行っている最中に雲の中に聖母が現れたのを目撃したことに因む。
ビルヘン・デ・ラ・ヌーベの姿がセニョール・デ・ロス・ミラグロスと共に描かれる理由は、現在のリマ市において行事の中心的役割を担うエルマンダ・デル・セニョール・デ・ロス・ミラグロス・デ・ナサレナス(以下ナサレナスのエルマンダ)の本部があるナサレナス教会に隣接するカルメル会の修道院の創設者が、エクアドル出身の修道女アントニア・ルシア・デル・エスピリトゥ・サント(1646-1709)であったことに起因する。
ナサレナスのエルマンダは、セニョール・デ・ロス・ミラグロスへの信心を持つ人々が集う信徒団(あるいは兄弟会。中世ヨーロッパで普及した互助組織。元来は葬儀の援助を目的としたが、のちに守護聖人の祭礼を執り行うことが多くなった)であり、日本における群馬県伊勢崎市や神奈川県大和市のエルマンダの″元祖″ともいうべき組織である。
セニョール・デ・ロス・ミラグロスのエルマンダの会員は行事中、キリストが受難の際に紫色の衣を着せられたことに因んだ紫色のアビトと呼ばれる修道服を着用するが、この紫色の修道服は彼女によってナサレナス修道院が設立された頃からの伝統であり、修道女たちもカルメル会の管轄となった現在でも特別に紫色の修道服を着用する。そのため、紫はセニョール・デ・ロス・ミラグロスを象徴する色となり、別名“クリスト・モラド(紫のキリスト)”とも呼ばれる。
ペルー本国、特にリマ市においては 10 月の 1 カ月間を紫の月を意味するオクトゥブレ・メス・モラドと呼び、セニョール・デ・ロス・ミラグロスに信心を持つ人々はエルマンダに属していなくとも紫色の衣服を着用して過ごす習慣がある 。行列そのものはかつての地震の際の奇跡と関連して 10 月の第一土曜日、18 日と 19 日、28 日、11月 1 日に行われている。
その後、翌11月の1カ月間にはリマ市内の各地区でそれぞれの地区ごとのエルマンダにより町内レベルでのプロセシオンが行われる。この地区ごとのエルマンダの数はリマ市内だけでも50団以上はあると考えられ、セニョール・デ・ロス・ミラグロスの人気ぶりを表している。
現在、ナサレナスのエルマンダは登録者数約5000人を誇る大組織となっている。男性のみで構成される担ぎ手カルガドーレスは各200人前後で全20隊のクアドリーヤと呼ばれる小隊に組織されており、このほかに名誉会員であるエルマノス・オノラリオス、女性で構成される行列時に香炉を焚くサウマドーラスと讃美歌を唄うカントーラスに分かれている。エルマンダはリマ市の大司教から任命されたマヨルドモと呼ばれる会長の下で運営され、毎年 10 月のリマ市の行事の際には行事の主催者となり活動している。
筆者は、群馬県伊勢崎市と神奈川県大和市を中心に学生時代よりこの行事についてフィールドワークを行っているが、そこから見えてくるのはこの行事は信仰の産物であると同時に故郷、家族、友人/仲間への愛情の体現であるということである。
信仰という面において、このプロセシオンは一種の苦行=贖罪の意味を持ち、アンダを担ぐことにより十字架を背負ったキリストの受難を追体験し、自らの罪の許しと祈りを実践するものである。また、参加者の中には過去にセニョール・デ・ロス・ミラグロスを通して奇跡が起こったことへの感謝として参加する人も多い。それはアンダの装飾に用いられるマントもしくはベンドネス(アンダ下部を覆う布)やバンデリン(ペナント)、エクス・ヴォートもしくはミラグロ(カトリック版の絵馬)等の奉納などにも表れる。
これらはまさにひとつの信心業の実践であるが、この行事が持つ意味はそれだけではない。
ある大和市のエルマンダの会員はこの行事を「年に一度、日本に散らばって住む家族や友人たちが再会する場所」と述べ、沖縄県宜野湾市での行事をかつて中心となり実施していた人物は「プロセシオンの際に焚くパロ・サント(一種の香木)の香りは、故郷の町での子供時代の記憶を強烈に思い起こさせる」と筆者に語った。伊勢崎市のエルマンダの会員のひとりは、「毎年プロセシオンでアンダを担いでいるときは、故郷に残した母親が自分が日本へ旅立った直後に事故死したことを思い起こす。今でも自分が日本へ行ったことにより母親が悩んでいたために事故が起きてしまったのではないかと考えてしまう」という話をしてくれたことがある。
このように、少なくとも日本においてセニョール・デ・ロス・ミラグロスは、在日ペルー人にとって自らの守護聖人へ感謝し、讃え、そして祈ることで未来への希望を見出す行事であると同時に、年に一度の同胞の集う大切な場所、あるいは自らの過去を思い起こし、人生を振り返る場所でもあると言えるだろう。まさに彼らのアイデンティティと強く結びついた存在であり、聖俗が一体となった行事であるといえる。それゆえに、人間として普遍的な感情に訴えかけるものとして、非常に美しく感じられる存在なのではないかと筆者は考える。
以上
菊池 一輝
2024.1.30. 下記参考文献を基に菊池が 2018 年に作成した修士論文中の記述を抜粋して作成:
寺澤宏美 2013 在在日ペルー人とカトリック教会」『現代における人の国際移動アジアの中の日本』(吉原和男編) p423-436 慶応
義塾大学出版会。
沼尻正之・三木英 2012 在再現される故郷の祭り 滞日ペルー人の奇跡の主の祭りをめぐって」『日本に生きる移民たちの宗教生
活』(三木英、櫻井義秀編) p115-138 ミネルヴァ書房。
古屋哲 2014 在在日ペルー人の暮らし セニョール・デ・ロス・ミラグロスを中心に」立命館大学国際関係研究科博士課程前期・
学位論文。
Enrique Martín Tokumori Neyra 2008『LA HISTORIA DE LA FE EN LAS CALLES DE LIMA』 Deposito legal en la Biblioteca
Nacional del Perú.
Ramón Mujica Pinilla 他 2016『El Señor de los Milagros: Historia, devoción e identidad』 Banco de Credito del Peru.
Rubé n Vargas Ugarte 1949『Historia del Santo Cristo de los Milagros』 Centro de Proyección Cristiana.